葛飾北斎がなくなって10年後に横浜港が開港する
1849年に90歳で亡くなった葛飾北斎が晩年通った長野県小布施市の北斎館に行ってきた。
北斎没後10年経って(1859)横浜港が開港する。生糸が輸出品として注目される。それからたった9年(1868)で明治元年だ。1872年に富岡製糸場、1874年に藤岡市高山社が始まる。
横浜の赤煉瓦倉庫は生糸の保管庫だった。富岡を見学した武井は諏訪式の生糸繰機を発明する。コストは1/15になった。諏訪湖エリアは、腕利きの女工が家を二軒建てられる年俸に沸き、人口が諏訪湖に集中し始める。やがて横浜港から輸出される生糸の輸出額トップを長野県岡谷が独占する。群馬(富岡)じゃないってところがびっくりだ。一方、長野県松本市は蚕のF1種の発明をいち早く採用した片倉財閥創業者の実弟、今井五介(ごすけ)の活躍で、たった5年で日本全国に蚕種を供給する最大供給拠点に町を成長させる。F1蚕種の発明により、それまで安かろう悪かろうの「横糸」市場を世界で中国、イタリアを抑えて独占していた日本だったが、太さが一定で繊細な「縦糸」の市場に入り込めていなかった日本は、高品質な縦糸の大量生産に成功する。信州は養蚕業が栄え畑の大半が桑畑一色となる。
日本は外貨獲得輸出品(=生糸)拡大に突き進む。外貨は富国強兵(軍備増強)に費やされる。アメリカでは生糸需要は靴下市場に沸き、日本の生糸の輸出先は米国がトップになる。
横浜港が開港して70年後の昭和4年(1929)に世界恐慌が起きる。
運悪く1930,1931年と天候不順で飢饉が続く。食料危機が起きる。好景気で人口が増えた農家の次男、三男坊が行き場を失う。娘が口減らしに売られて行く。
豊臣秀吉の死後、内にこもって文化を成熟させ北斎を産んだ日本は、再び大陸に向けて牙を剥く。
世界恐慌の2年後(1931年)に満州で関東軍はでっち上げ事件を起こしズルズルと嵌って行く。
世界恐慌の7年後(1936)、226事件が起きる。財政改革、国内工業化、内需拡大路線を訴える高橋是清が暗殺され、一気に満州植民地化路線に舵が切られる。
外貨獲得の最大の輸出国相手に戦争を始める。
そして日本は太平洋戦争に嵌って行く。
何故、満蒙開拓に渡った人口が長野県は突出して全国第1位だったのか。決して国策に迎合する県民性だった訳じゃない。
そして、改めて諏訪の地に日本の近代工業が起った事に興味を深くする。恐らく1200年続く縄文の巨木文化が養う宮大工の層の厚さが、諏訪式の蚕糸繰り機発明の源泉だったんじゃないかな。とか仮説を立てている。
参考)
長野県阿智村満蒙開拓平和記念館
長野県岡谷市 蚕糸博物館
群馬県藤岡市高山社
長野県松代大本営跡
書籍 蚕糸王国信州ものがたり (信毎選書)
松本市はかり資料館