長野県立歴史館(長野県千曲市)で、企画展「諏訪と武田氏」

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2022/10/30 11:00

 

長野県立歴史館(長野県千曲市)で、企画展「諏訪と武田氏」が開催されている。数えで7年に1度の御柱祭(おんばしらさい)が開催された今年、「諏訪」が信州においていかに重要だったかに光を当てた。侵攻した戦国武将、甲斐・武田氏は諏訪社の再興を大義名分とし、さらに神事を通じて信濃全域の情報も収集。まさにロシアによるウクライナ侵攻が続く中、400年以上前の史料の数々も臨場感をもって見えてくる。

 

同盟国を奇襲

抗争を繰り広げてきた諏訪氏と武田氏。享禄元(1528)年、諏訪頼満・頼隆は境川(長野県富士見町)で武田信虎を打ち破る。この勝利は諏訪湖の神事、御神渡(おみわた)りの記録「御渡注進状写」(諏訪市博物館蔵)に記され、和睦の際に打ち鳴らされた諏訪社の御宝鈴「鉄鐸(てったく)」の複製も展示されている。頼隆の子、頼重は信虎の娘で、信玄(俗名・晴信)の異母妹を妻に迎えた。

ところが、信玄が武田家当主の座を奪うと関係は一変。天文11(1542)年、信玄は安心しきっていた頼重を急襲し、頼重は甲府に連れられて自刃に追い込まれる。その生々しい最期は、当時の神長官・守矢頼真が「守矢頼真書留」(長野県宝、個人蔵、神長官守矢史料館管理)に書き残した。

 

諏訪社再興を大義

信玄はその後、諏訪氏の分家である高遠諏訪氏も屈服させて諏訪を掌握した。信玄が徹底して諏訪にこだわったのは、「諏訪社の神事に信濃国中の人が協力したり、資金を提供したりしていたからだ」と、歴史館の専門主事、内城(うちしろ)正登さん(42)は解説する。戦国時代、諏訪社は「戦の神」として信濃国全域で信仰され、諏訪社と結びつくことはその後の領地拡大において、守護神を得るようなものだったという。

弘治3(1557)年、信玄は、争乱などでしばらく絶えていた諏訪社の祭礼を復活するよう通達したことが、守矢頼真宛てに送った「武田晴信書状」(長野県宝、個人蔵、神長官守矢史料館管理)で確認できる。諏訪社の再興を大義名分に、侵攻が正当化された。永禄4(1561)年の「武田晴信定書」(同)によれば、大社の神器である御宝鈴の使用料も定めるなど次第に神事に介入していった。

情報収集にも利用

天正6(1578)年の「下社春秋両宮御造宮帳」(諏訪市博物館蔵)には、御柱などの造営に携わった地域として、中条(長野市)、小布施など諏訪から遠く離れた村も記され、武田氏側は神事を通じて各地の財政事情などを入手できたと内城さんは説明する。

信玄といえば、孫氏の旗「疾(はや)きこと風の如(ごと)く…(風林火山)」(山梨県甲州市の裂石山雲峰寺蔵)が有名だが、多くの合戦絵図には「南無諏方南宮法性上下大明神」と書かれた諏訪神号旗(同)も描かれ、〝錦の御旗〟として自軍の士気を大いに高めた。巨大な2旗は展示の目玉の一つだ。

10月初めの開幕式で歴史館の笹本正治特別館長(信州大名誉教授)は、諏訪側からみれば「ウクライナ問題と同じように、戦国時代には信州に甲斐から武田氏が攻め込んできた。いろんな意味で読み直しが必要になってくる」と改めて歴史に学ぶ重要性を強調している。

 

 

 

 

企画展は11月20日まで(月曜と4日休館)。観覧料は一般300円など。(原田成樹)