満蒙開拓団 池田浩士

いのちの祭り2000 フォーラム報告
8/4「満蒙開拓団と長野県;
いまだ語り明かされていない日本現近代史」

池田浩士さん
http://www.nabra.co.jp/inochi/forum/ikeda.html

Thanks for Kuwahara

最初に1932年10月に送りだされた、第一次移民、弥栄村の移民はすべて、武装移民でした。大砲、機関銃、そして、ひとりひとりが銃、ピストル、日本刀、そういう物を持っている。何故かと言いますと、日本人はみんな、悲しい事に、(今の若い人は夢にも思われないでしょうが)二十歳になると男は全部、徴兵検査を受けなければならなかった。2年間の兵役義務があった訳です。


その時、東北と北陸は農村が、壊滅状態にあった訳です。30年と31年は大凶作なんです。それから30年から、蚕(かいこ)の、繭(まゆ)の値段が大暴落した。という事があって、東北、北陸の米作農家及び一部の養蚕農家では、ひとつの村で一年間で、50人の娘が売られて行った、身売りをしていった。と言う記録がある位の、物凄い農村は大変な状態だったんですね。


翌年33年に今度は第二次の武装移民500人が送りだされました。これも、同じように今度は長野県。甲信地方を名指しで募集しました。これは、さっきお話しました、繭の大暴落で、農村が壊滅していたという所。これも、瞬く間に定員を突破していた。


第3次以降は、武装移民ではなくて、まったく普通の移民、農家の次男坊、三男坊でした。


「あの村はまだ分村移民を送りだしていない」と言うと、これは地方自治体から配分される予算が削られるっていう事が起こってくる。そういう風に色々な圧力をかけて、嫌でも応でも、なんとか分村させて満州に行かせる。


日本中で、米が自給自足できたのは滋賀県だけだったんです。あの、戦争がものすごく過酷な状況になっても、滋賀県では米が足りていたので、満州へ行く必要なんかなかったのです。

滋賀県すごい。

「長野県は1930年の時点で、県下の全農家の80%が養蚕農家でした。」

繭の生産量が日本全国で考えると1926年昭和最初の年であり、大正の最後の年ですね。この年の日本全国の繭をお金に換算すると、8300万円になっている。今と全然ケタが違いますけど。これは比較の問題。それが、8年後の1934年には、繭の全日本における、売り上げ額というのは、2000万円。1/4以下になっている。


30年、31年、この2年続いて、冷夏。今年みたいに暑くない。冷害だったんですね。従って、米が壊滅したわけです。
(略)
2年不作が続いたら、今の日本は輸入しないとダメな訳ですよ。
(略)
当時は輸入できないから。2年間不作であるということは、ほんとに、2年間日本人が米を食べられなくなるということ。
(略)
年表の上の数字で確認できることは、この2年続き不作であるということが、確定した時点で、満州事変が起こったということです。これは歴史上の現実ですね。


農村経済更生運動というのは、絵に描いた餅に終わる所だった。一番熱心だったのは、長野県です。その熱心だったイデオローグ。しかも、地域に根を降ろした理論的指導者は、ほとんどが学校の先生。小学校および、中学校の先生。これは、信濃教育会という、現在もある組織の人たちが、

これも初めは反体制的な運動だったんですよね、

その教育者たちが、ここで一番の地域の理論家。リーダーになっていく訳です。こうして、農村経済更生運動はとりわけ長野県では信濃教育会とタイアップして、非常に地元に浸透していった訳ね。

「その時、水曲柳鎮は267戸、そして1096人居ました。敗戦当時。


帰って来た人たちのほとんどすべては、再入植をさせる。これは内地再入植です。

今では、一番有名なのは上九一色村。それから、成田の三里塚。北海道、そして北軽井沢。

大日向村は、軽井沢に新しい三つ目の大日向村を作らなくちゃならなかった。

で、この大日向村の生き残りで、再入植した、今ではもう亡くなったと思いますが、あるおばあさんが、1970年代にインタビューに応えて、こう語りました。「自分の生涯で一番苦しかったのは軽井沢だ。あそこでは本当に開拓をしたから」。