日本語ワープロの誕生 森健一さん

日本語ワープロの誕生
1978年なんて大学に入った頃だな。
計算尺(!)がまだ辛うじて大学の生協に売られていた。
1938年生まれの森健一さん。
1962年東芝入社。
入社5年で成果。
>1967年(昭和42年)、郵政省からの委託研究である「自動手書き郵便番号読み取り装置」の開発に成功した。
その4年後。
>開発のきっかけは1971年頃、のちにJW-10の開発者となる森健一と、新聞記者との雑談であった。
7年後に成果。
>JW-10(ジェイダブリュー・テン)は、1978年(昭和53年)9月26日

すごいな。
ーーー
http://ja.wikipedia.org/wiki/JW-10
JW-10(ジェイダブリュー・テン)は、1978年(昭和53年)9月26日に日本の東芝が発表し、翌年2月に出荷開始した世界初の日本語ワードプロセッサである[1]。
TOSWORD JW-10という表記がなされることもあるが[2]、JW-10の段階ではまだ「TOSWORD」の愛称をもたなかった。
東芝製の業務用ワープロに「TOSWORD」の愛称が冠せられたのは後年である[3]。

概要
価格は630万円。重さは220kg。
片袖机ほどの大きさの筐体に、キーボード、ブラウン管、10MBのハードディスク、8インチフロッピーディスクドライブ、プリンターが収められている[4]。
開発当初は普及を疑問視する声もあったが[5]、JW-10の開発によって培われたかな漢字変換の技術は、日本語入力システムの全てにおいて当然のように使用されるようになり[6]、東南アジアの諸言語のワードプロセッサの開発にも応用されている[7]。
第6回データショウにてJW-10が発表された9月26日は「ワープロの日」として制定されている[8]。

開発

開発のきっかけは1971年頃、のちにJW-10の開発者となる森健一と、新聞記者との雑談であった。
この雑談の際、「欧米の新聞記者に比べて、日本の記者は記事を書くのが遅い」ことが話題となった。
森はそれが道具の差であるとして、日本語ワードプロセッサの構想を持った[9]。
日本語ワープロの最大の問題は、漢字の入力方法だった。
すでに1915年には、杉本京太が邦文タイプライターを開発していた。
しかしこのタイプライターの入力方式は、広い板の上に一つ一つ配置された漢字を選択するというものであり、使いこなすには大変な熟練を必要とした。

1970年代の日本語ワープロの研究開発は、森の所属していた東芝のほか、沖電気NEC、シャープなど各社でも行われていた。
この頃に主流となった研究モデルは、かな漢字変換ではなく、連想式と 呼ばれる方式であった。
この方式はかな文字を2つ入力すると漢字に直接変換する方法で、変換に特殊な処理を必要としない。
そのためワープロの漢字入力方法 として最有力視されていた。
しかしこの方式では、変換できる漢字の数がキーボードの組合せの数までしか割り当てることしかできない。
また、一つの漢字に対する変換方式をいちいち覚えていかなければならないため、修得するには大変な努力が必要となる等の欠点がある。

森は「誰でも」入力できることを念頭において、あえて主流である連想式ではなく、かな漢字変換方式を採用した。
しかしながら当時、かな漢字変換の研究は、一部の学者のみが行っているという程度であり、参考となる資料もほとんどなかった。
当時の九州大学工学部の教授である栗原俊彦はこの研究を行っていたが、彼は沖電気と共同でこの研究を行っており、森が協力を得ることはできなかった。
そこで森は、九州大学工学部出身の新入社員である河田勉を、当時京都大学助教授だった長尾真のもとへ1年間国内留学(研究生)させた。
長尾はコンピュータによる日本語の構文解析の研究を行っており、河田にはそこで形態素解析の研究を行なわせた。
また森自身も、かな変換用の辞書を造るために日本語の文法を徹底的に勉強し、計量国語学の学会にまで入った[10]。
このとき河田は、京都大学で文字認識の研究をしていた大学院生の天野真家と出会う。
天野は河田から東芝にくるように誘いを受け、開発メンバーの一人として迎えられた。

このようにして開発メンバーが増えたが、しばらくはアンダー・ザ・テーブル(正式な研究になるまでの探索過程の非公式な研究)で行われた。
最初の頃 は森が全体の管理を行い、形態素解析のプログラムを河田が開発し、それを用いて意味・文法解析アルゴリズム全体の設計を天野が行っていた。
しかし文法論が 充実するにつれ、だんだんと2人でのプログラミングでは足りなくなってきた。
そこで森の紹介により、新たな開発メンバーとしてプログラマーの武田公人が加わり、主に固有名詞の処理プログラムを担当した[11]。

1976年4月にかな変換の有効性に対してある程度の妥当性がでてきたところで、「日本語処理の研究」に関する研究企画書を提出し、本格的な研究が始まった。
こうして1977年11月頃に青梅工場で本格的な開発が始まった。
青梅工場の技術者によって、キーボードやディスプレイの動作確認を行うためのハー ドウェアが作成され、このハードウェア上で、JW-10のOSや、かな漢字変換の一部、エディタなどほぼ全ソフトウェアが開発された。
天野は仕様書も流れ 図も持たず、頭の中にあったアイディアを直接キーボードで打ち込んでいた[12]。
森は日本語ワープロの設計思想を以下のようにまとめている。
1. かな漢字変換(誰でも手書きより速く入力ができること)
2. ポータブル機能
3. アクセス機能
このうち、最終的にJW-10で達成されたのは1のみであった。

ーーー
森健一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%81%A5%E4%B8%80_%28%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%29

1938年(昭和13年)、東京生まれ。1957年、麻布高等学校卒。
1962年、東京大学工学部応用物理学科を卒業。
東京芝浦電気株式会社(現・東芝)に入社。
同社の中央研究所(後の総合研究所)で文字認識の研究に従事。
1967年(昭和42年)、郵政省からの委託研究である「自動手書き郵便番号読み取り装置」の開発に成功した。
さらに日本語ワープロの研究に着手。
河田勉、天野真家、武田公人らからなる研究チームを率いて1978年(昭和53年)、かな漢字変換方式を搭載した日本初のワードプロセッサ「JW-10」の商品化に成功した。
1971年 - 東京大学より工学博士 「手書文字認識方式の研究」。
東芝の情報システム研究所長、取締役パーソナル情報機器事業本部長、常務取締役を歴任し、1999年(平成11年)、テック(現・東芝テック)株式会社取締役社長に就任。
2003年(平成15年)相談役。
2004年(平成16年)、東京理科大学専門職大学院教授に着任。
2006年(平成18年度)、文化功労者として顕彰された。
2007年〜 早稲田大学高等研究所 諮問委員会委員
科学技術振興機構研究主監も務める。
ーーー
http://www.ijinden.com/_c_21/Mori_Kenichi.html