動画 書き下ろし 第1回 湯川秀樹と武谷三男
ーーー
http://www.nhk.or.jp/postwar/program/schedule/
第1回 湯川秀樹と武谷三男
Eテレ2014年7月5日(土)午後11時〜翌0時30分
Eテレ【再放送】2014年7月12日(土)午前0時00分〜午前1時30分(金曜深夜)
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹とその共同研究者、武谷三男。戦時中、原爆開発に関わった二人は、戦後「科学者の社会的責任」を唱え、原子力の平和利用のあり方を模索する。
武 谷は、広島を訪ね、原子力が二度と軍事利用されない研究の枠組みが必要だと考え、原子力研究の「自主」「民主」「公開」の三原則を主張した。1956年原 子力委員会の委員となった湯川は、海外からの原発の早期導入を進める方針に対し、自主的な基礎研究を重視するよう主張し、辞任。晩年まで、核兵器の廃絶、 核なき世界を訴えた。
湯川たち物理学者は「原子力」とどう向き合い、その未来をどう見つめたのか。
http://www.nhk.or.jp/postwar/program/schedule/
第1回 湯川秀樹と武谷三男
2014年7月12日(土)午前0時00分〜午前1時30分(金曜深夜)
ーーー
昭和20年8月6日 広島に原爆投下。
8月9日 長崎に原爆投下。
仁科芳雄。
戦時中 原爆開発。
サイクロトロン。
2号研究。
当時31歳の武谷三男。
「私は原子爆弾の研究を
本とうにできるだろうか。
どれくらい工業力があったらできるだろうか。
私は決してそれが出来るとは思っていなかった。」
昭和19.9月 会議にて、湯川は
核分裂の連鎖反応の可能性について報告。
GHQ サイクロトロン破壊
占領下、日本の原子力研究は禁じられた。
ーーー
湯川
知識階級が勇気と実行力において欠けるところがあった。
慙愧の念に耐えない。
ーーー
アインシュタイン
アメリカ大統領に大統領に原爆開発を進言した。
アインシュタインは、戦後そのことを悔いていた。
「自分が研究したことが原爆になって罪もない日本人を殺すことになって申し訳ない。
と涙を流した。
ーーー
湯川 ノーベル賞受賞。1949年(昭和24年)。
戦前(昭和9年)発表した中間子理論。
湯川の受賞は、傷の癒えない日本に
京都大学 湯川と研究と共にした、小沼通司さん。
「科学立国」
憧れと期待が大きかった。
陽子 中性子 何故結びつくのか。
湯川は中間子を予言。
湯川 原子力の利用の展望。
「原子力に平和的活用が人間の福祉にどんなに大きな貢献をするか、
おそらく私どもの想像以上であろう。」
ーーー
昭和24年 日本学術会議
武谷三男
GHQに原子力の研究を提案した。
「日本で原子力の研究は禁止されている、占領軍によって」
「学問思想の自由委員会が私(武谷)と坂田昌一君とで提案して」
「それ(原子力研究の禁止)をやめろと申し入れをした」
「GHQのトップへ乗り込んでいって申し込んだ。」
「原子力だろうと学問である以上はやるべきであると」
武谷は婦人雑誌などで原子力利用を提案する。
婦人画報昭和27年8月号
「原子力を平和につかえば」
藤本陽一 武谷の薫陶を受けた。
原子力発電の可能性
その見通しはそんなに
発電としては蒸気の温度が高いほどよい。
高い温度で原子炉を
10年後とか20年後とかいっておられた。
それくらの準備研究は必要だ。
すぐにできるわけじゃない。
昭和27年。日本は独立し、制約はなくなった。
原子力研究の在り方について議論が始まる。
茅誠司 研究を始める組織について提案。
政府の責任に
期間の提案。
三村剛昴(よしたか) 広島大学教授
三村は広島で被爆していました。
自らの体験を元に反論します。
「発電発電と言われましたが、
一夜にしてそれが原爆に化する。
だから、政府にこれをやらすということはもっとも危険。
私は絶対に反対するものであります。」
茅誠司
「彼(三村)の提案はアメリカとソ連の仲が平和に
なった時に初めて原子力の研究はすべきであると
それより前にすべきではないというのが彼の結論だった」
その男にすっかり一座はやられた。
それからいろいろな議論が起こってね
結局取り下げろと
こんなに大勢の人が取り下げてくれというので
取り下げたんです。」
当時東京大学4年生
小沼通二さん
「政府の中に原子力委員会を作るなんて
とんでもないことだ
研究者の意向と無関係に
当時も保守政権ですから 日本はね
特に占領中は絶対命令下にあった
独立したとはいっても事実上それが
継続していた時代
だから政府の下に作る事は
アメリカ政府の影響の下で
これから日本がやっていく事につながるだろう
日本も軍事研究に巻き込まれるんじゃないか
始めちゃうんじゃないかという事があったから
それだけは避けようじゃないか。」
ーーー
ようやく被ばくの実相が公になりはじめた。
「このような広さを一挙に壊滅させ
この世の地獄と化してしまった
原爆のすさまじい威力を今更のように感じた。」
原爆ドームのすぐ前で、
吉川清(きっかわきよし)さんがおられてバラックを
ケロイド 原爆被害を訴えていた。
峠三吉(とうげさんきち)
発表されたばかりの 原爆詩集。
「
序
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
えいわをかえせ
」
小沼
「峠さんの詩であるとか 吉川さんの話であるとか
こちらへ(竹谷さんが)来て 原爆にあった方々に実際会って
話を直接聞きますとね
峠さんが言っておられるような
「わたしにうながる にんげんをかえせ」という
人間性の否定につながるような面があると
言葉じゃなくて実感として感じるという面があったと思う
原子力の研究が原子爆弾を作る事に
結びつかないという条件がどうしても
必要だという点があったと思います
武谷さんは人類の中で初めての体験をされた
被曝者の方々の気持ちをふまえて
日本人として原子力の研究は
こうでなくちゃいけないと世界に発言する
世界中の原子力研究がこういう事を
ふまえてやらなくてはいけない
はっきり世界に向かって発言すべきであると
確信を得られたんじゃないかと思う
」
「原爆で殺された人々の
霊のためにも 日本人の手で
原子力の研究を進め
人を殺す原子力研究は
一切日本人の手では
絶対に行わない
日本人こそ原子力について
最強の発言者だ
ーーー
武谷
「日本は原子力をやる権利がある
ただしそれはこういう条件のもとでやる
日本で原子力をやる場合には
あくまで公開にしなきゃならん」
公開
自主 外国の秘密の知識は一切教わらない。
民主 いかなる人の出入りも拒否しない。
日本の原子力研究の方向
1952年 アメリカが初の水爆実験に成功。
ソビエトが対抗。
核開発競争激化。
ソビエト 平和利用も進めた。
オブニンスク原発建設。
1953年 アイゼンハウワー
原子力エネルギーに関する機関の
重要な責務は 核分裂物質が
人類の平和利用のために使われる方法を
工夫することであろう
アメリカも原子力の平和利用をテコに西側陣営の結束をよびかける。
国会 2億6千万円。
改進党
中曽根康弘議員。
戦後の復興には原子力の平和事業が必要。
「原子力の平和利用については
国家的事業として
政治家が決断しなければならない
左翼系の学者に牛耳られた学術会議にまかせておいたのでは。
小田原評定を繰り返すだけで2〜3年の空費は必至である。」
武谷三男
「中曽根予算が出たから さあ来たってわけだよ
僕は52年に広島で出した三原則を提案して
あっちこっちで講演して回ったわけですよ
それをどのようにやるか注文をつけて」
原子力憲章草案。
ーーー
原子力予算が通過した直後、
学術会議は声明を発表した。
「原子力の研究と利用に関し
公開 民主 自主の原則を要求する声明」
昭和29(1954)年4月
喜多尾憲介さん
武谷三原則。
ーーー
1954年3月 アメリカがビキニで水爆実験を行った。
マグロ漁船 第5福竜丸
放射性降下物 死の灰
白血球が急激に減少し、
髪の毛が抜ける。
9月、久保山愛吉さんが亡くなる。
太平洋でとれたマグロからも放射線が検出。
日本中でパニック。
湯川は原子力と人類の転機ととらえた。
湯川秀樹(毎日新聞 昭和29年3月30日)
「原子力の猛獣はもはや飼い主の手でも
完全に制御できない
凶暴性を発揮しはじめた
ーーー
=====
京都大学基礎物理学研究所
ビキニ事件に衝撃を受けていた湯川に
バートランドラッセル、アインシュタインと一緒に平和利用の著名。
核兵器の廃絶を訴えた、ラッセル、アインシュタイン宣言。
「
私たち科学者は
あらゆる紛争問題の解決のため
平和的な手段をみいだすように勧告する。
」
2週間後、アインシュタインが亡くなった。
その翌日、ラッセルに平和利用宣言に署名することを伝える。
湯川秀樹
「真理を探究するということは
結局は人類のためのものである
そう単純素朴にずっと考えてきて
それで間違いないと
思ってたらですね
がらりと 変わっちゃったですね
私の人生観も
非常に変わりましたね
別の言葉で言えば
わたしたちのような世間離れをした
学問をしておるものでも
社会に対して責任がある
責任からから逃れることはできない。」
原水爆禁止運動
三千万人を超える署名。
アメリカは危機感を抱いていく。
当時 国務省 二本課
リチャード・フィン
「日本の科学者や知識人の間の
ヒステリー感情は予想外でした
反米感情が広がるのを防ぐには
すばやい解決が必要でした
吉田政権は親米的でしたが
弱体化する一方でした
アメリカの核実験は非難され
左派的な政権が生まれそうな勢いでした
ーーー
原子力を産業へ
映画を通じて原子力の平和利用の宣伝を始める
CIE・USIS映画
1954年 日本封切
「簡単に言いますと
その魔術は原子炉と呼ばれる
巨大な炉の一種から始まります
そこで放射性同位元素と呼ばれるものが
人工的に作られます
左側にある原子炉の中のウラニウム原子が
分裂するとすさまじい熱量を発生します。
この熱が溶解する金属に移され
(注 今動いている原発は金属を溶解して
熱伝達するものは無いよね。)
溶解した金属が炉からボイラー室へと
流されるとすれば
水を沸騰させて蒸気を作ることが出来ます
蒸気は発電機を動かすことが出来ます
明日は原子が産業機械の動力源となることでしょう
」
平和利用を宣伝する一方で、
アメリカは日本の科学者の動向に注意を払うようにしました。
オットー・ラポルテ
アメリカ大使館の科学担当官
「
湯川、武谷とじっくり話し合った。
湯川は愛国心の強い、アメリカに対して友好的。
武谷は、急進的 反米的で有名であり、共産主義者、熱烈な愛国心の持ち主であった。
」
昭和30年1月、米国200万ドルの見舞金。
これをもって完全解決。
===
===
1週間後、
原子力建設、濃縮ウランの提供を非公式に
原子力協定を日米間で結ぶことを求めてきた。
ソビエトに対抗する。
相手が秘密を守ることを条件。
1955~58年
濃縮ウランの提供 新聞紙上で明るみに。
「機密保全の問題
双務協定をともなった形で
もらった濃縮ウラン
自主性をくずされる
危険性が強い」
日米原子力協定を巡る座談会。
中曽根康弘議員
「大局的見地からは米国と「双務協定」を
結んで平和利用を促進すべきだと思う
どういう点であなた方の言われる
心配の念がでてくるのか わからない」
武谷三男
「我々学者から言えば
秘密の問題です
いろいろなことで実際日本が
相当ガンジガラメになっている点もある」
中曽根康弘議員
「一番心配されるのは
軍事的なことが心配であって
平和的側面における秘密の保護には
心配する内容はないと思う」
武谷三男
「いや 非常にある」
NHKニュース
昭和29年12月29日放送
武谷三男
「何といっても原則として
今 原子力に秘密が多すぎる
日本では秘密のない線で
いかなければならない
原子力は人類のホープでありまして
10数年後からは原子力で発電することは
人類の将来の希望ですから
そのためには根本的に正しい考え方で
やっていかなければ
どさくさでは とても出来ない
我々物理学者は希望している」
===
===
原子力を中心となって検討していた
東京教育大学 教授
藤岡由夫
藤岡は三原則を維持すれば
5年から10年の遅れ
ラ・フォルテ
学術会議はおそらくあきらめてくっぷくするであろう。
武谷 長崎正幸
藤岡に批判的
政府のいいなりになってアメリカの原子力のやりかた
ウランまで
日本で独自なこと無いも属国になっているのに
原子力でも属国になって
そのあと電力問題で日本はどうしていくのかなと
そういう考えだった。
日米原子力協定 仮調印
昭和30(1955)年6月
どのようにして科学者に協力を得たのか。
三原則を受け入れ
衆議院 法案説明
科学技術振興対策特別委
昭和30年12月13日
「原子炉を早く米国へ行って
買うために 至急国会の承認を必要といたしておるのであります
日米協定をつうかさせるときには
当然国民全般に原子力政策の大網を示して
おくべきであります」
昭和30年12月 日米原子力協定 国会承認
昭和30年12月19日 原子力基本法成立
「第二条 原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、
民主的な運営のもとに自主的にこれを行うものとし、その成果を
公開し、進んで国際協力に資するものとする。」
武谷三男
「日本の原子力基本法ができ
まがりなりに
三原則が法的に確認された
政府はまだ完全に認めているとは言えないが
それを認めさせる努力を続けるとともに
この三原則をみずからの手で
守っていく」
自由民主党 結成
昭和30(1955)年11月
鳩山一郎内閣
原子力担当大臣
正力松太郎(しょうりきまつたろう)
原子力平和利用博覧会
昭和30(1955)年11月
「夢をかきたてる原子力飛行機の想像模型など
数々の展示品が新しい時代を示しています」
=====
=====
260万人
昭和31年(1956)1月
原子力委員会
初代委員長 正力
正力の要請を受けて、湯川秀樹が委員となった。
湯川の資料整理が進み、新たな
原子力委員会の一回目の資料
湯川 直筆ノート
研究会
外国の原子力発電の構造
当時 大学院生 西田稔
原子炉の研究
「日本における原子力の発展が
暴走しないだろうと思ってました。」
正力
「5年目までに実用的な
原子力発電所を建設する。」
森一久 科学雑誌の編集者
湯川
「原子力委員をやめようと思っている
基礎研究なんてやらなくていいと」
手帳
「ねばり強くあれ」
「委員を続けた
外国のデータをうのみにしないように
基礎研究を大いにやる
基礎的な研究からじっくり取り組むべきだ」
しかし事態は思わぬ方向へ
イギリス原子力公社産業部長
クリストファ・ヒントン
原発の売り込み
日本の火力発電に比べ、コストが半分。
コールダーホール原発と同じ型
湯川 英国の発電原価
伊原義徳(90) 当時科学技術庁課長補佐
湯川と正力の溝が深まっていく
まず研究は自主的に行うべきであって
外国からものを買ってくるような話とは違う
ということが湯川さんの基本的姿勢ですから
正力さん それに対して外国から買って来てでも
なんでも早くやるんだという政治家の立場ですから
全然立場が違うわけです
政治家と学者との違いは
その時に痛感しました
日本の火力発電所の燃焼効率が高いことから、
原子力発電所の導入のメリットが無いことがわかりました。
我々は勉強して正力さんに
「イギリスでは原子力発電は採算に乗りますけど
日本では採算に乗りません」と報告書をあげたら
「木っ端役人は黙っておれ」と
しかられた事があるんです
大臣にあげたけどもそれっきりです」
=====
=====
湯川
物理学者だけでは大変だ。
昭和32年1月
インド 実験用開所式に出席。
日本はこと原子力になると
極端の予定ばかりで嫌になる。
自宅で療養。
昭和32年 3月29日 辞任。
「みんながっかりしたと思います。
湯川さんには頑張って欲しかったけど
原子力発電の知識を得て
何か役に立てるんじゃないかと、」
「湯川さんですらできないんだから
もう アカンのだろうなと思って」
湯川> 苗と切り花のたとえ。
原子力開発利用長期計画 策定
昭和31(1956)年
昭和32年12月18日放送
NHKニュース
正力松太郎
日本のような人口が多くて
化石燃料の少ない国では
どうしてもこの原子力に依らなくちゃならん
昭和40年までに60万kW
50年までには700万kWの発電をすることにしている
炉の形は英国系と米国系を採用する
まず最初は英国のコールダーホール型を採って
武谷三男 無謀な未知への進入
「コールダーホールは
関東大震災程度にも耐えるという
結論を出したということである
ところが実際は日本から持って行った
地震の映画を見て
英国の原子炉の専門家は
キモをつぶしたということである。
原子炉も未知のことが多いし
経験も浅いことも
今こそ十分に反省すべきであろう」
反論:
武藤清 東京大学教授
耐震設計の問題は
極めて順調に進んできており
国民の皆様にも
安心して頂けることを
確信している。
坂田昌一 政府に安全性の問題を訴えた。
原子力委員会
原子炉安全審査専門部会 は原子力委員会の中にあった。
坂田は、
原子力委員会から独立した機関として
安全保障委員会設立を政府に申し入れた。
小沼>
そもそも一つの原子力委員会の事務局である
科学技術庁の中にあるのではなくて
はっきり分けて公平な中立者が評価し
どうこうすることにすべきだと
伊原
安全審査は法律に基づく
学術会議
次の2号炉、3号炉の
外からにせよ、前の通りにし
学術会議は無視されていった。
残念。
武谷>
何故
腐れ縁のない
昭和40年 1965年 東海村 コールダーホール
=====
=====
1960年代 ICBM 核開発競争。
湯川秀樹 会議 ラッセル・アインシュタイン会議 パブウォッシュ
レオ・シラード 「核兵器といかに共存し 生き残るか」
核抑止論
会議は次第にこの核抑止論に覆われていった。
湯川>「核兵器は人類と共存できない
科学者が世界の現状を容認しているようでは
パグウォッシュ会議は
その存在意義を失ってしまうだろう」
湯川秀樹>
NHK教養特集
講演 世界平和への道
昭和38年8月11日放送
「私たちの1人1人は
戦争のない一つの世界を
実現することに努力すべき
責任と義務とがあるのではないかと
思うのであります」
沢田昭二さん
「核兵器は物理学の原理を
使ってやっているわけです
物理学が悪用されてしまったという意識は
湯川先生 朝永先生 坂田先生は
すごく痛烈に感じられていたと思います
自分の研究を進めていくという
問題だけではなくて
その研究の結果がどう使われていくか
責任を持たなくてはいけないという意識は
すごい強かったと思います」
昭和50(1975)年 パグウォッシュ会議 京都シンポジウム
議長 前立腺がん
「核抑止論にとらわれているかぎり
自らを苦しめることになるのは明らかである」
国家のエゴを捨て核抑止を超えよう。
湯川・朝永宣言
原爆投下直後の広島・長崎の映像を上映。
湯川の願いは核兵器の全面的な廃絶。
それはアインシュタインと誓い合ったことでした。
沢田昭二>
「一番強調されたのは
ラッセル・アインシュタイン宣言の原点
初心に帰れということを強調された
それを言いに来たというかんじがした
会議をそういう方向にもっていきたいという
気持ちが表れていたと思う
湯川先生のすごい執念
お気持ちの強さを感じた」
=====
=====
核保有国のソビエトとフランスの科学者が著名しませんでした。
1970年代になると各地に原子力発電所
ターンキー契約による輸入。
放射能漏れ
制御棒
トラブルが続出。
武谷三男
昭和47年
原子力安全問題研究会
原子力発電が「これだけ必要です必要です」
と必要なことばかりおっしゃる人が多いのですが
ほんとにどれくらい実用かを考えていない。
特に日本でも 現代技術の非常な欠陥は
一歩一歩やっていく考えがなくて
コンピューターでパーと
一挙に巨大化する
この巨大化というのが危険
技術は理論を
持っているだけじゃなくて
経験を踏まえなければダメなんです
藤本>
原発について、正体を調べてよく理解しようと。
安全装置がどういう考え化tで
原子力発電が本物になりうるかどうか見極めたい。
一冊の本
メルトダウンの危険性
深刻な事故に
建設を中止すべき
1970年代 健康被害 公害反対
同じく、原発反対の声も各地で
住民運動を支えるための情報を提供。
武谷>
法律にもちゃんと三原則がうたわれているのに
秘密にします いうことです。
昭和50(1975)年 原子力情報資料室
高木仁三郎 核化学の研究者
東京都立大助教授を辞め反原発を訴えた。
高木によれば、資料室の在り方で議論した。
「日々解析・批判していくことが
社会的に求められているのではないか」
「いわば自分たちの運動として資料室にかかわるべきではないか」
武谷三男>
「科学者には科学者の役割があり
運動には運動の果たすべき役割がある」
高木>
「私個人はそういう役割人間であることを拒否したいと思います」
===