未来の命をも傷つけ続ける原発事故

■大規模な環境汚染

かつて、公害という日本の工業化の歴史の過程に、
環境汚染の歴史がありましたよね。
たとえば、水俣病であれば、因果関係が科学的に特定され、
汚染物質(有機水銀)を流した企業チッソは、被害者に賠償を続けている。

原発の事故により、環境汚染が起きた。
自宅に帰れなくなった。
「帰宅困難」なんて表現が、すでに詐欺ですよね。

チェルノブイリの例を見るまでもなく、
財産を保障し、健康のための医療体制を補償し、
できれば、村丸ごと移住を補償し、
それが、本来あるべき姿です。
双葉町の町長の主張は至極もっともだったと思った。

本来あるべき状態に対して、そこから議論が始まるならまだしも、
自民党も、東電も、ぬくぬくと黒字でボーナスもらって
再稼働までちゃっかりやろうとしている異常を
(いやだけど、つかれちゃうけど)異常だと見続けないといけないと思うんです。

その原点は忘れてはいけないし、
しつこく しつこく 言い続けて、
犯罪者に、刃先を突きつける作業を続ける必要があると思う。
何故なら、命を傷つけられたのですから。当然の行いです。

この著者の、
「同じお金を別の目的、例えば避難生活に苦しむ家庭などに使うべきではないか(*1)」
という言葉をさらっと書く神経が、嫌いです。


■命(いのち)のこと

最近の判決で、自殺したお母さんが補償対象となったでしょ。
あれは、私はかなり救われたと思う。
福井地検の例の「人格権」判決で、原発から250kmの範囲の人に、
原発建設や再稼働に反対する)原告になる権利があると認めた。
あの裁判が画期的だったのかもしれないけど、
そのあとの、自殺したお母さんへの賠償が裁判で確定した。

事故が起きなければ、当たり前に、自宅に住み、手塩をかけた植物に囲まれて、孫との暮らしを続け、自宅で、最期を迎えることができたであろう。
「今の生活を続けられる権利」が、本来ある。その権利の観点から、つまり、人格権から、判決がなされた。

東電側の弁護士が、原告側の自殺した女性の特徴として、自殺しやすい傾向があるのではないかと、「脆弱性(ぜいじゃくせい)」という言葉(*2)で、原告を否定したけど、自殺しやすいかどうかじゃなくて、
事故が起きなければ続くはずだった、幸せな暮らしの場が奪われた。
もっといえば、自分、家族、親戚、地域、友人、そのつながりの中で人は生きている。
自分の命は、じつはそうしたひとたちとの、目に見えない、日頃の交流の履歴や、さらに言えば、過去にその地域を支えて汗を流してくれた人たちの思いや、願いともつながっている。
そのすべてが、「命」なんです。
その命を傷つけられた。それが、原発事故の起こした犯罪です。

そして、普通の公害と大きく違うのは、未来の命をも 傷つけ続けるのが放射性物質

我が郷土をいったいどこまで傷つければ気が済むのか。

お金で、償うという視点以前に、幸せな暮らしを続ける権利。
そこに、いつも立ち戻って、そこからいつも発信する必要があると思うんです。

初出:
https://www.facebook.com/ichinoseshu/posts/772769779479521?comment_id=773085636114602&offset=0&total_comments=10&pnref=story

(*1)「同じお金を別の目的、例えば避難生活に苦しむ家庭などに使うべきではないか」
http://agora-web.jp/archives/1628273.html
(*2)脆弱性
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-0504.html