「自分の子がその1人に該当するかもしれない」として視る

「xx万人に1人の確率で」
という計算を、行政執行者の視点で視るのか、
「自分の子がその1人に該当するかもしれない」として視るのか、
で数字の見方が異なります。

放射線強度の強い土地に住む国民の発がん性は低い」とか、
放射線は実は体にいい」とか、いう議論も同じ。
こうした説明は、
「でも、自分の子が犠牲になるかもしれない」
という不安を解消する理由にはならない。

根本的にココの感度が違うのだと思う。

たとえ話にすると少しは理解できるかも知れない。

この話は、お酒に強いロシア人、お酒に弱い日本人という事実が、実はアルコール分解酵素を持つかどうかに依存している、という話に似ていると思う。

かつて、大学の新入生歓迎コンパで先輩に強引にお酒を飲まされて、急性アルコール中毒になり、搬送先の病院で死亡する事件が有りました。
お酒を飲ませた先輩と、子に死なれた親の立場、と言い換えても良いかも知れません。

飲ませた先輩の理屈は、
「アルコールは、飲んで慣れないと強くならない」
とか、
「アルコールは体にいい」とか、
言っていたかも知れない。
でも、現実問題として、目の前で人が死ねば、飲ませた先輩は、自分の不明を後悔し、一生その責任を背負うことになる。

でも、今回の放射線の議論は、「因果関係」が不明のままになる可能性が高い。
そして、原因不明のガンで子が死ぬ時、親は放射線を浴びせてしまった自分の不明に後悔こそすれ、その怒りの向け先は宙に浮く事になる可能性が高い。

だから、せめて、
「自分の子がその1人に該当するかもしれない」として視る
ことが大切だと思う。

学校の校庭の放射線基準を20ミリシーベルト/年 という基準を決めた文部科学省の決定に反対し、撤回を求める。