イリイチ 脱学校の社会

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IVAN ILLICH:脱学校の社会(DESCHOOLING SOCIETY)東京創元社[1977.10.20/1970]


(p-122)
一方では耐久性のある限られた種類の製品をつくり、他方では人々の
相互行為の機会を増やし、その行為をより望ましいものとすることの
できる制度を利用可能にすることである。


耐久財に基礎をおく経済は、製品の意図的老朽化に基礎をおく経済とは
正反対である。そこでは、製品はそれを用いて何かを「する」ための
機会を最大限に提供するもの−−例えば自分で組み立てるもの、自分で
何かやるのを助けてくれるもの、再生するためのもの、あるいは修繕
するためのもの−−というようなものでなければならないであろう。

耐久性があり、修繕可能であり、再生することができるという条件の
もとでは、それらの製品は限られたものだけになるであろうが、その
ことを補うものは、制度によって与えられるサービスを増やすことで
はなく、むしろ人々に活動すること、参加すること、および自分の力
でやることを絶えず教育する制度的枠組みなのである。

われわれの社会が、現在−−すべての制度が脱工業化的官僚主義の方向
に向かっている−−から脱工業化的相互親和の将来−−その時には生産
のための努力よりも有徳な行為のための努力の方が主となっている−−
に向かってかえられるとすれば、われわれはサービスを提供する制度
−−なかでも教育を提供する制度−−を若返らせることから始めなけれ
ばならない。

望ましい実現可能な将来が来るかどうかは、われわれが科学技術の知識
や技術を、相互親和を深める制度の発展に寄与させる意志をもつかどう
かにかかっている。教育研究の分野においては、このことは現在の傾向
を逆転させる要求になるのである。



(p-140)
すぐれた教育制度は3つの目的を持つべきである。

第一は、
誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたとき
であろうと、人生のいついかなるときにおいてもそのために必要な手段
や教材を利用できるようにしてやること、

第二は、
自分の知っていることを他の人と分かちあいたいと思うどんな人に対し
ても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるように
してやること、

第三は、
公衆に問題提起しようと思うすべての人々に対して、そのための機会を
与えてやることである。

そのような制度では、教育に対して憲法上の保証がなければならないであろう。学習者は、特定のカリキュラムに従って学習することを義務づけられるべきでないし、証明書や卒業証書を持っているか否かによる差別を受け入れることを強制されるべきではない。公衆もまた、逆進税制を通して、教育者と施設からなる巨大な専門職機構を指示するように強制されるべきではない。実際そのような強制のなされている従来の機構のしたでは、公衆の学習する機会は専門業者が自分のほうから市場に出すサービスの範囲内に限られているのである。

すぐれた教育制度の下では、本当に誰もが自由に論じ、自由に集会を持ち、自由に報道ができるようにし、またそれゆえにそれらのすべてが十分に役立つものとなるように近代的科学技術が用いられるべきである。

(ichinose-1995)
イリイチはこの本を1970年に著わした。

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