道具論 Steve Jobs の3年忌に寄せて

Steve Jobsの命日が10月5日だったこともあり、彼が家庭では自分の子どもたちにiPadを積極的に与えていなかった、という記事がかなりfacebookでシェアされていましたね。

いちど、書いておきたいと思っていたことがある。

子どもにiPadを与えるべきかどうか。
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通信技術を使って、遠方に信号を伝える際に、必要最小限の信号で最大の情報をどのように伝えるかというテーマに取り組んだシャノンは、伝えることのできる情報の数と、ON/OFF信号の信号線の本数の関係は、

[ 情報の数=2^信号線の数 ]

で表せることを示した。
情報が2通りなら、信号線は1本。
4通りなら、信号線2本。
8通りなら、信号線3本。
てな具合。

これは、勝ち抜き式試合(トーナメント戦)の試合回数でも同じことが言える。8チーム参加なら、3回分の試合時間を確保する必要がある。256チーム参加なら、8回分の試合時間が必要だ。つまり、256個の数の中の1つを選ぶ場合には、最低でも、8回の「判断」が必要だ、ということになる。

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ところで、昔は、秋葉原の駅を降りると決まって、「便利な台所用品」の実演販売をやっていた。
(いつの時代だよ^^;)
包丁でキュウリを切るのではなくて、両刃のカッターがスライスが決まった厚さとなるように、プラスチックの板に固定されていて、キュウリを押しつけて左右に振らすだけで、キュウリのスライスが出来上がる。

「わぁ便利だ。」と家庭料理の達人達は我先にと購入する。

でも、台所用品は、専用機であるが故に、別の用途には使えない。そのため、用途毎に、専用の用具が必要となり、台所は、専用用品だらけになる。

例えば、8種類の専用調理具が有るとすれば、どこに保管してあるかを思い出すために、最低限でも、「3回」の判断が必要となる。

この道具は、
(1) シンクの下の扉の、
(2) 左扉の、
(3) 手前、に有る。
のように、最低でも、3段階のステップで記憶しておく必要がある。

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一方、この8種類の専用用具を使わずに、全て包丁でこなす料理人が居たと仮定する。この料理人が、8種類の専用台所用品の代わりに腕を磨くとしたら、その技術は何処に蓄積されているのか?と考える。おそらく、指先や手のひらや腕を連携して動かす訓練の上で獲得する身体能力であって、結果、頭脳のなかの身体能力を司る神経系に永久メモリーとして蓄積されることになるのだろうと思う。
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以上をまとめると、
見かけ上は、8種類の調理手段をこなすために、一方は、専用の道具を使い、台所スペースの空間配置で、置き場を特定する。もう一方は、単純な道具を使いこなし、身体能力で全ての種類の調理をこなす。
 どちらが、良いか。私は、子どもの頃の教育は、出来る限り、体の中に、身体の中にその多機能性を盛り込んでいくことが大切だと思って居る。

iPadで絵を描かせるくらいならば、絵の具や鉛筆や、時には指先でじかに、絵を描かせるべきだと思う。なぜならば、多様な身体能力が、その子の内部に蓄積されるからだ。そして、体内に蓄積された機能の多様性は、それらが相互連絡を始める。結果、体内に蓄積された機能の組み合わせ数は、幾何級数的に増加する。そうして、子どもの頃に蓄えた多機能性は、将来、自由自在に駆使できる基盤能力となる。

(自分では作れない)専用用具と、実空間でのそれら専用用具の配置の記憶により、能力を発揮していた子どもはどうなるか。保管空間が消えたり、専用用具を作り出すメーカーが消えた途端に、それまでの蓄積は再利用出来なくなる。

iPadは、専用用具に似ている。これで絵を描いた途端に、指先は単なるスイッチでしか無くなる。それ以上の身体能力を期待されないため、緻密な機能を蓄えない。

私はそんな考えを持っている。

(初出:facebook
https://www.facebook.com/ichinoseshu/posts/717177805038719