「日本人がノーベル賞を受賞すると誇らしく思う。」のは何故か?

 今回、山本太郎天皇へ手紙を手渡した行為に関して「不敬罪」という言葉まで飛び出した。沸き立つ議論を眺めていて、ふとある疑問が湧いてきた。いったい「誇り」ってのはなんだろうか。という疑問だ。実は、議論のネタはこうした観点に潜んでいて、それが山本太郎の行為の評価に関係してるのではないかな?と思ってる次第。

「日本人がノーベル賞を受賞すると誇らしく思う。」
ノーベル賞を未だに取れない国の民族を蔑む気分が起きる。」

別に自分が賞を取ったわけでもない、受賞者が家族でもない、同じ会社の同僚でもない、でも何故だか誇らしい気分になる。何故なのだろうか?。戦争前夜、日本国民としての誇りを鼓舞し、日本国を蔑む鬼畜米英を憎み、国民を戦争に向かわせた。戦に負けて、軍指導部を悪者にして、「戦争終わったね、ちゃんちゃん。」と終わったことにしてるけど、煽る側と煽られる側の情動の構造は今も変わってないように思う。なぜ「誇らしい」のか。それが、「戦前なら不敬罪だ」と眉間に血管を浮きだたせる衝動の根幹だと思ってる。

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例えば、「日本の誇り」の用例。
西川京子 文部科学副大臣のblogより引用:

「私はTV入り予算委員会で、国民の皆様に、この二つのいわれなき寃罪とも言える日本軍の行動の実体をお伝えして、これから日本を背負ってゆく子どもたちに自国への誇りをとり戻してもらいたいという思いで慎重に質問して、一応それは成功したと思いました。いわば、これから一歩ずつ、この質問を第一歩として、活動してゆこうと思っていた環境整備をぶち壊してくれたのが橋下氏です。もっとしっかり勉強して、着実に一歩一歩日本の誇りをとり戻す闘いにしていっていただきたいと思います。」
という具合に「日本の誇り」という言葉を使っている。

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 ちょっと、この話題から離れて、商品企画の話に飛びます。
付加価値の高い(高く売れる)商品の要因を異なる二つの方向性で説明する時があります。
ひとつは、(1)技術。
ひとつは、(2)顧客密着。
このどちらかに徹底することで、商品の付加価値が上がる。つまり、高く売れる。技術に独自性、他社にないオリジナリティが有れば、青天井の価格設定が可能だ。一方、顧客密着による効果で、客から目て気軽に頼みやすい、毎日顔見せに来るのでついでに頼む。こちらの事情を良く把握してるので痒い所に手が届くので、他社より受注比率が高い。
 つまり、技術の独自性を目指すか、顧客密着を上げるか、その、どちらかに高価格商売がある。技術も他者の真似、2番手、3番手。営業対応能力も低い、となると付加価値が上がらない。他社の追随を許し、働けど働けど利益の低い仕事に追いまくられる。独自技術で行くのか、それとも顧客密着で行くのか。別の言い方では、SeedsとNeeds(シーズとニーズ)を極める、「技術の種と客の需要」と言ってもいい。

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 誇りの話に戻って。個人と国家の関係を考える時にこの商品企画の考え方を思い出します。ここで「技術」を「個人の才能」に置き換える。「顧客密着」を「国家という「客」に密着する国民」に置き換える。商品価値は、国の付加価値。魅力。世界的影響力。国力。かな。
 日本という国の国力(魅力)を最大限に高めるために、さっきの商品価格設定の二つのアプローチ同様に、二つのアプローチがあると想う。一つは、個人の才能を徹底して最大限に引き出す。そのためには、国家は個人の才能を開花させるための「支援装置」となる。国家が個人のために仕(つか)えるのだ。もう一つは、国家が前面に出る。国家の目標があり、個人は国家が最大のパフォーマンスを発揮できるように、痒い所に手が届く支援体制を作る。国民は国家の応援隊。国家のためには時に個人は犠牲になる。ってな感じ。

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 結論、書いちゃうと。明治時代は、国家が先で国家のために個人が奉仕する犠牲になる時代だったのだと思う。まあそれも仕方なかったかもしれない。でも、今の日本の立ち位置は違う。これだけ識字率の高い勤勉な国民性は稀だ。だから、さらに個人の才能を開花させる方向に国家が支援する。その方向に軸足を移すべきだと思う。
 誇りとは、動機付けでもあると想う。誇りの基準を国に置いた時代には、天皇という装置を利用したくなったのも頷ける。「国の誇り」という装置に価値を与える存在が必須だった。でも、そろそろ誇りの基準を個人に置いても良い時代が来たんじゃないだろうか。私はそう信じている。

(初出:facebook)