伊藤穰一 × 波頭亮 2013年08月17日

http://toyokeizai.net/articles/-/17012

伊藤穰一 × 波頭亮
2013年08月17日

オリジナリティを持った人材をいかに育成するか


社会のなかを変えるような、あるいは産業構造を一変させるような活力ある、そしてグローバルで活躍できるベンチャーを創出するためには、個人が優れたオリジナリティを持たなければいけないと私は考えています。

これまで日本では、いい人材というと、人とうまく調和できることが重要視されていました。もちろん、調和能力がなければチームワークを築くことはできませんが、

もはやそれは最優先事項ではない。


何を学ぶかではなく、どの学校に入ったほうが有利か。こんな教育ではオリジナリティなど生まれるはずがありません。もっと、自分に投資するというコンセプトで学ぶ人が増えないと。

(下)

日本と米国は、教育とラーニングという違いがあるんじゃないかと思う。出題者が求める答えを返すと満点になるのが教育で、出題者の意図とは違うけれど、出題者をひっくり返すほどの答えなら満点になるのがラーニング。


「もう1つ思うのは、日本のインダストリー同様、教育までもが縦割りになっているということです。メディアラボでは、学生や教師も含めて、1つの専攻でずっと来ている人間はおそらく1人もいないでしょう。みんな2〜3回専攻を変えています。」


メディアラボに来る学生は、プログラムも書ける、設計もできる、アートもできる、ナノでデバイスもつくれば、クルマもロケットもつくれちゃう。

ほとんど何でもつくれるという自負を持っています。

そういう人間たちが、まだ誰もやっていない分野を見つけてきてチャレンジする。

そこではとても厳しい競争が行われているのだけれど、それは強制的な競争ではなく、自ら望んで参加するコンペティション

そうやって、アイディアもスキルも磨かれていくんです。


「1980年代、学生運動が失敗した後くらいからだと思うんですけれど、日本では一生懸命にやるのがカッコ悪いという風潮が出てきましたよね。」


「波頭 どちらもある物事に執着して一生懸命になるという意味ですが、米国でよくいわれる「ギークgeek)」と日本の「オタク」の評価はずいぶん違います。ギークにもほんの少しネガティブなニュアンスもあるようですが、9割方はポジティブ。」


伊藤 権威を疑うと同時に、そうでなければどうすればいいのかと自分で考えるコンビネーションが重要なんだと思います。

メディアラボでも、学生たちは「それは違う」と意見をぶつけ合っています。それはある種の格闘技みたいなもので、当然勝ち負けはあるんですが、それがまた自分たちのためにもなると考えられている。ディベートが健康的なスポーツのように捉えられているんですね。

波頭 メディアラボのような研究機関では、自由闊達な意見のバトルが非常に重要ですよね。ところが、日本の研究機関や教室では、先生が主張している仮説に反論を試みようものなら、多くの場合浮いてしまう。

数学の天才ピタゴラスは、無理数の存在を証明した弟子を殺してしまうという過ちを犯したとされていますが、日本ではそのような過ちをいまだに繰り返しているようです。正しいことに対する敬意、あるいは違うことを言うことの価値が、日本ではまだ十分理解されていない。


ディベートの仕方を知らないということもあるでしょうね。

メディアラボはMITの建築学科の下にあるので、どんな研究も実際に「モノ」をつくるんですよ。

議論は、つくられたモノに対する評価が中心となるので、比較的客観的なものになりやすい。

エゴから離れたところで、建設的な議論ができるんです。

しかし、概念だけの議論は、相手へのアタックになりやすいから、感情的な対立になってしまうのでしょう。

「中国に「牛に乗りながら、馬を探す」という諺がありますが、常に馬を探していることが大事です。」

「それから、プランZを用意しておくことは重要ですが、あまりに細かい計画は逆効果を生むことも付け加えておきましょう。計画を綿密に立てると偶然性(セレンディピティ)を排除することになります。偶然性のないところにはラッキーもチャンスも生まれません。そうではなく偶然性のなかからチャンスをキャッチすることが大切なのです。」