関東大震災に於ける朝鮮人大虐殺

関東大震災に於ける朝鮮人大虐殺 http://himadesu.seesaa.net/article/53464623.html


語る人  元本庄警察署新井巡査

群馬県へ送ろうということで、神流川の河原までいったが、群馬県側が受け取らず藤岡署と交渉した。その間十六名の朝鮮人を河原におろして交渉した。
本庄署では、前夜(三日夜)から保護していた朝鮮人が四十三名いたが、電話でデマにおびえた人達からの出動要請があって警官は出はらっていた。私が警察に残って外からの電話に出ている時、警察がからっぽであることを見ていった奴がいたのだ。

私が神保原の派出所に電話をかけると、電話からキャーキャーワーワという惨劇の声が伝わってきた。トラックに同乗して神保原に行き、群衆におそわれて派出所に逃げこんだ村磯署長をその電話に出してもらおうと思ったが、村磯署長は机の下にかくれているということだった。

本庄署へ引き返してきた三台のトラックは、朝鮮人を満載していた。私もそのトラックに乗っていたが、集まってきた群衆の中に青木紋九郎というギュウタロウがいた。その紋九郎が、「あいつは朝鮮人の偽巡査だ。あいつからやっちまえ」と煽動した。それがあいづとなって一せいに群集が襲いかかり、あの惨劇がはじまったのだ。私は一瞬早く車から降り避難した。この紋九郎という男は、長野県の県会議員の息子で教育もあり、弁も立つ男だった。私は後になって加害者を報告する時、この男を一番先にあげた。
惨劇の模様はとても口では云いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査ではとうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。

子供も沢山いたが、子供達は並べられ、親の見ている前で首をはねられ、その後、親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも途中までやっちゃあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後で、おばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」と云って、死体の目玉を出刃包丁でくりぬいているのも見た。

当時演武場は、警察署の方ではなく、町役場の方から電灯をひいていたので、演武場の電気は警察の方からは消すことができなかった。私は演武場の中の四十三人が見つかっては大変だからと、電気を消すように役場の方へ頼んだが、一向に通ぜず、そのうちに、演武場の中の朝鮮人も見つかってしまったのだ。「ここにいた」というわけで、群集は演武場に押しかけ、四十三人ことごとく殺してしまった。朝、私が演武場に行った時、立てかけてあった畳の陰にいて助かった二人の婦人から、水をくれ、と頼まれ小使いにもたしてよこすから、といっている間に、朝早くからやってきた群集に見つかり、昨夜の凶行場所に連れていかれ、ベンチの上で刺し殺されてしまった。私はどうすることもできなかった。

警察署の構内は前夜の凶行で血がいっぱいだった。長靴でなければ歩けなかったほどだ。警察署の構内で殺されたのは八十六人だが、本庄市内で殺されたのもいた筈だ。死体も見たが十五、六人位・・・二十人まではいなかったと思う。

署内の留置所にいて一人助かったが、これも群衆が「凶行を見られてしまったからには、朝鮮へでも帰って話されたら大変」というわけで、留置所の鉄棒の間から、竹槍で突こうとしたのだが、あっちへ逃げ、こっちへ逃げして、とうとう助かったのだ。これは後でどこかへ送られた。私は長い間、朝鮮人の「アイゴウ、アイゴウ」という悲痛な叫びが耳からはなれなかった。
(中略)